マタイによる福音書 13章3~9節
イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。
「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
耳のある者は聞きなさい。」
マタイによる福音書 6章19節
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
トランプが敗退することによって、私たちは危険な時代を迎えることになりました。それは事実です。しかしトランプがあなたの代わりに全てのことを成し遂げてくれて、自動的に神の国をもたらしてくれる、というような信仰観は、非常に無責任な信仰であると言わなければなりません。
もしあなたの代わりに誰かが使命を果たしてくれて、あなたが何もしないですむのなら、どうやってあなたは神様との関係を築いていくことができるのですか?毎日神様に対して「何もかもあなたが成し遂げてくださって、ありがとうございます」というお祈りだけするつもりなのですか?
私たちが活動をする時、外的な勝利はもちろん大切なんですが、それだけではなく、いつも自分の内面を見つめ、どのような状況に陥ったとしても神様とメシアとの関係を築き、自分の内面を成長させることができる人こそ、本当の信仰者と言えるのではないでしょうか?
そういった意味では、外的に成功している時こそ危険な時であり、外的に迫害を受けている時こそ、恵みの時であるとも言えるのです。
なぜなら外的な成功は奢り高ぶりを生み、私たちを信仰から離してしまうことがあるからです。これは私たちの歴史を振り返ればすぐに分かることです。成功することにより、私たちが自分で勝利したと奢り高ぶってしまうからです。
それとは反対に、困難な時代には、私たちは自分たちの本来の信仰に立ち返り、自らの信仰を取り戻すことができます。だから私たちはみ言葉を学び、よく祈って、神様とメシアとの関係を築くことこそが何よりも大切なのです。
冒頭の聖句は、私が反対キリスト教牧師に10ヶ月の拉致監禁をされた時に、私を支えた聖句です。どうしてこの聖句が私を支えたのか、なかなか分かりにくいと思います。しかし私は困難な時代に、私たちが何を準備し、どうやって乗り越えていくのか、という重要なメッセージがこの聖句には込められているのだと確信しています。
ところで10か月の拉致監禁の期間って、どんなことをしているの?という疑問を皆さまは持つと思います。そこから少し話をしたいと思います。
基本的には毎日、起きてから寝るまで、統一教会の教義や活動に反対する本を読み、反対キリスト教牧師や元信者の話を聞くことになります。それから元信者の人が書いた統一教会に入ってから脱会するまでの過程を書いた手記を読みます。
私は元信者の手記をおそらく100名分以上は読んだと思います。また拉致監禁の期間中に、100人以上の元信者の証言を聞きました。
通常であれば、拉致監禁されて反対キリスト教牧師から、統一教会批判の話を聞くことになった時、ほとんどの人は腹を立て、反論せずにはいられない心境になると思います。もちろんそれは私も同じでした。
しかし大勢の敵に取り囲まれ、私の生死与奪すら敵の手に握られている時には、私たちは神の知恵によって、賢く立ち振る舞う必要があるのです。それは今のような信仰の危機の時代でも同じなのです。
私は彼らが語る教義批判に対して、一度も反論したことがありません。それどころか「ああ、言われてみればそうですね。もう理解しましたから早く出して下さい」と言い続けました。
これは反論する知識がなかったからそうしたのではありません。私は反対キリスト教牧師が実際には似非宗教者であり、彼らの戦術がウソであると知っていたので、私はあえて一切反論しなかったのです。
共産主義者たちが、信仰者を撃退する時、どうやってその人の信仰を奪うか考えたことはありますか?教義批判でしょうか?教祖批判でしょうか?もちろんそれらは全て正解です。しかし本質はそこにはありません。
共産主義者が、信仰者から信仰を奪う唯一つの方法は、その人と神様との関係を断ち切ることです。どうやって断ち切るのでしょうか?
それはその人がどこで伝道されて、どんな時に神様を実感したのか、神様に感謝したこと、良かったこと、悪かったこと、神様に対してどう考えているのか、メシアに対してはどうか?そういったその人の信仰観を全て聞き出して、それらを一つずつ潰していくのです。これが彼らの唯一の戦略なのです。そのための手段が教義批判であり、教祖批判なのです。
だから反対活動家は、その人を解放する前には、必ず自己批判文を書かせようとするのです。それはその人が信仰に至った全ての要素を叩き潰したかをチェックするためです。
これらのこと(どんな時に神様を実感したのか、神様に感謝したこと、良かったこと、悪かったこと、神様に対してどう考えているのか、メシアに対してはどうか?)は、サタンがその人の信仰を奪う時に、必ず叩き潰す事項なのです。
だから逆に言えば、これこそが私たちにとっての「宝の中の宝」であり、決して「簡単に他人に打ち明けてはいけない」事柄なのです。
真の信仰者は、自分の信仰を簡単には打ち明けません。だからその人が神様とどんな関係を結び、どんな歩みをしてきたかを簡単に図り知ることはできません。これこそが私たちにとっての信仰の武器なのです。
だけれども多くの信仰者の人たちは、サタンと命がけで闘った経験があまりないので、すぐに簡単に騙されてしまいます。あなたを心配して話を聞きたいんだ。親や親戚を伝道したいのなら、今それを話すべきだ。あなたが熱心に話せばきっと分かってくれるだろう。私も今は反対する立場だけでも、私だって納得すれば統一教会に入るよ。
こんなバカな話があるでしょうか?
拉致監禁して殺すと脅しておきながら、信仰の秘密を聞き出そうとするとは、どれだけ人をバカにすれば気がすむのでしょうか?
しかし実際には、おそらく皆さまがこのような立場に立った時、半分以上の人は騙されてしまうだろうと思います。
聖句の話に戻ります。
(1) 種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
種はみ言葉です。もしみ言葉を語るその場所に、落ちてくる種を奪おうと待ち構えている鳥がいるならば、そこでは絶対に種を蒔くべきではありません。
私たちが神様から受けた恵みを貴重に扱わない人は、本当の信仰者ではありません。正しい信仰者は、正しい時に、正しい場所で信仰の種を蒔くのです。
(2) 別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
伝道は信仰の生命を育むことです。赤ちゃんを産み育てる時に、出産の前までに、様々な用意をしてから出産に臨むのと同じことです。
伝道をする時にもすぐにみ言葉を語るのではなく、相手にみ言葉を受け入れる土壌があるのかを確かめ、もしそうでなければ相手の心情の土壌を耕すことから始めないといけません。
またもしいばらが生えていれば、それを刈り取ることから始めないといけません。もしそのような準備をしないでみ言葉を語っても、信仰は実を結ぶことはできません。
だからもしこのような状況の時には、み言葉の種を蒔くべきではありません。私たちが神様から受けた恵みを貴重に扱わない人は、本当の信仰者ではありません。正しい信仰者は、正しい時に、正しい場所で信仰の種を蒔くのです。
(3) 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
これが私たちの目指すべき理想です。もし今が極寒の冬であれば、種を蒔く季節ではありません。種を蒔くためには、必要な時期を待たなければならないし、時期が来たら畑を耕して、雑草を抜いて、十分な準備をしてから種を蒔く必要があります。
今はその時でしょうか?それは人によって違うと思います。
今の時に準備されている人もいると思いますし、まだ時でない人もいると思います。
いずれにしても私たちは、自分に与えられた天稟を、必要な時に使えるように準備しておくことが必要です。もし外が暴風雨であれば、私たちは準備に専念することができます。
神様は無限の方ですが、神様が私たちに下さった恵みはそうではありません。それはたった「一粒の種」です。それを簡単に他人に渡してしまう人がいたならば、それは愚かな人だと思います。
真の信仰者は、神様から与えられた一粒の種を貴重に扱います。暖かい時期を待ってそれを畑に蒔き、その芽を守り、それが育つのと待ちます。悪人に奪われないように目を光らせる必要があります。そうして一つの季節が過ぎて、神様から与えられた種から、私たちは収穫をして、そうして初めて新たな種を増やすことができるのです。
他人から聞いた話を、すぐに誰かに伝えようとする人は、貰った種をすぐに誰かに渡してしまう人と同じです。おそらくそういった姿勢では信仰が実を結ぶのは難しいと思います。
今は困難な時期なので、私たちは自分の信仰を見つめ直し、まずやるべきだと思ったことがあれば、まずはそれを自分自身で実践してみるべきです。そして一つの季節が過ぎて、新しい種を収穫できたならば、今度はそれを他人に渡すことができるようになります。
そしてこそが私たちが神様から与えて頂いた信仰の生命を、本当の意味で活かして、私たち自身が自分の責任分担を果たし、次世代に信仰を伝えていくことができるのだと確信します。
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